コラム

[自転車の歴史]ツール・ド・フランスは奴隷のレース!?|自転車レースの歴史

ツール・ド・フランスは奴隷のレース!?|自転車レースの歴史

 自転車の歴史に関する稿も回数を重ねて来たが、気分も新たに自転車ロードレースの歴史を紐解きたいと思う。ツール・ド・フランスはジーロ・ディターリアとブエルタ・ア・エスパーニャを加えたグランツールのひとつでフランスを一周するロードレース。毎年7月に開催され、21ステージで約3,500kmを駈けぬける。最も歴史あるロードレースであり、第1回大会は1903年で110年以上(戦争で中断期間あり)の歴史を持つ。レースが始まる都市をグラン・デパールと呼ぶが、名乗りを上げる都市が引きも切らない。人々を惹きつけてやまない魅力はどこにあるのか? ヒトモノカネのエピソードを切り口にスポットを当ててみたい。

 初期のツールは本当に何でもありだった。現代の洗練されたイメージとはかけ離れた過酷なもので「奴隷のレース」そのものだった。ステージ数は少なく、1日の走行距離は長くて400kmを超えることもザラだった。夜中まで走ることもあったし、コース上で便意を催して草むらに駆け込むことだってあった。走り終えたあと入浴中に亡くなる選手も出た。ドーピングというより苦痛を紛らわせるため覚せい剤を使ったりレース中にワインを飲んだり、今では考えられないことばかりだが、参加選手たちは体力的にはもちろん、精神的にもタフでなければ完走できなかった。

 なぜ、そこまでして優勝を目指したのか。当時の賞金について、手元に資料がある。1910年に総合優勝したオクタヴ・ラピズには1万5,000フランが贈られた。これは石炭運搬船の船長が9年間かかって手にする報酬だそうだ。でも、命を削った対価としては少し安くないだろうか? 現代のプロスポーツ選手ならば年棒数億円も夢ではない。サラリーマンが一生かけても稼げない金額だ。サッカーの三浦カズ選手のような例外を除いてプロの選手は短命だから、その分を一気に稼ぐ必要があるからで報酬9年分では圧倒的に安いとは言わざるを得ない。まだ当時は欧州でもマイナースポーツだったから仕方がなかったのか。少なくとも自転車だけで食べていける人は皆無だったことは間違いない。第1回大会の優勝者、モリス・ガランは煙突の掃除人だった。ほかの参加者も建具屋だったり鍛冶屋だったり、空中ブランコ乗り(!)、ピエロ(!)、居酒屋店主、肉屋と様々だ。黎明期は自転車の修理も自分でやる必要があったから、鍛冶屋は有利だったろう。ただし、体力と精神力が伴っていることが条件だが…。

前回までの「自転車の歴史コラム」はこちら
第15回 自転車がタイトルに入る法律の歴史
第14回 ハンドルの歴史
第13回 サドルの歴史
第12回 ペダルの歴史
第11回 自転車の駆動方式について
第10回 フレームの歴史
第9回 折りたたみ自転車のルーツと今後のポテンシャル
第8回 空気入りタイヤという大発明
第7回 コンポーネント(コンポ)の誕生
第6回 ツール・ド・フランス黎明期の自転車とは
第5回 自転車文化は一日にしてならず
第4 回 マウンテンバイクがやってきた
第3回 ジュニアスポーツ車は永遠に
第2回 ジュニアスポーツ車が遺した技術
第1回 ジュニアスポーツ車とは、いったい何だったのか?

内海 潤内海 潤(うつみ じゅん)NPO法人 自転車活用推進研究会 事務局長株式会社エクスゲート 代表取締役東京サイクルデザイン専門学校の非常勤講師として次世代の自転車人を育てる一方、イベントや講演会などを通じて自転車の楽しさや正しい活用を訴える活動を続けている。テレビへの出演多数。共著書に「これが男の痩せ方だ!」がある。